神戸都市開発の社長ってどんな人?創業から16年。一代で築いたビジネスの土台には紆余曲折の人生 | 住まいのWebマガジン/TEAM NEXT MAGAZINE

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神戸都市開発の社長ってどんな人?創業から16年。一代で築いたビジネスの土台には紆余曲折の人生

メディア出演など、注目されることも多い会社のトップ。
関西テレビ『TKO木本のイチ推しカンパニー』や、サンテレビ『企業未来図』の出演時には、
個人ブログへのアクセスなど、注目度の高さがうかがえました。

今回は、神戸都市開発の社長 福井の異例の経歴をストーリー仕立てでご紹介します。
マイホーム購入や土地の売却など、不動産は大きなお取引です。
だからこそ、会社の方針や代表の“人となり”も、判断材料の一つとしてお役立てください!

設立15周年「神戸都市開発株式会社」
躍進の15期連続黒字!異例の経歴を持つ社長の原点

高校中退、紆余曲折の下積み時代を経て25歳で起業。
住宅・不動産業界を知り尽くす苦労人!

父親は教師、母親は保育士
厳格な環境で育った小学生時代、それに反発した中学生時代‥
振れ幅のある経験が、人となりの根幹を築く

画像:幼少期

父親が高校の数学教師、母親が保育士という教育者家庭という事もあり、小学校時代は様々な意味で厳格な環境で育ちました。

しかし、中学校時代にはそれに対する若干の反発心が生まれ、厳格さへの反動か、一気に非行少年の道に逸れ、警察のお世話になる事もありました。

ただ、今振り返ってみると、この小学校時代と中学校時代の真逆の環境が、今の自分の形成にとても大きな影響を与えていると思います。

一つ一つの事を地道に行う事の大切さ、他人との関わり方、コミュニケーション能力、危機管理能力…、小中時代の振れ幅のある経験の全てが、今の自分を形成していると感じます。

両親にはたくさん迷惑をかけましたが、様々な経験をさせてもらい、色々な事を教わり、今ではとても感謝しています。

画像:剣道部主将の頃

また、中学時代は剣道部に所属し、一定の戦績も残していたことから、最終的には剣道部主将となり、団体戦では常に大将として試合に出場していました。

バンド活動を始めたのもこの頃からで、中学時代は、非行・剣道・バンド活動と日々目まぐるしく活動していました。

そうなると、もちろん勉強なんてする気もなくなりますし、する時間も無かったので、高校進学はとても困りましたが、剣道での戦績もあり、当時剣道部が強かった金光大阪高校(当時名は金光第一高校)に入学する事ができました。

画像:学生時代

プロを目指したバンド活動、そして高校中退…
メジャーデビューの夢を追いかけ10代にして過酷な自活生活を選ぶ

高校時代は、朝から晩まで剣道の稽古ばかりだったのですが、徐々に自分の青春時代を剣道だけで終わらせたくないという、とても身勝手な気持ちを抱くようになり、結果、剣道部を退部しました。

その後しばらくは高校に留まり、大学受験の為に猛勉強に励みます。

画像:学業に打ち込んだ時期

一応、小学校時代には勉強していた素地もあり、何とかそこそこの大学を狙える偏差値までは上がりました。
(ちなみに、当時担任の先生が茶道部の顧問だったこともあり、内申点の為に茶道部に所属していましたので、一応今でもお茶を点てる事ができます。)

画像:茶道部に所属していた頃

しばらくは大学受験に向けて、猛勉強の日々。しかし、並行して続けていたバンド活動が本格化するとともに、徐々に生活リズムがバンド活動中心にシフトしていき、高校を欠席することが増え、最終的には高校を中退、バンド活動に専念することになりました。

この頃に実家を出て、一人暮らしを始めたので、生活費やバンド活動費を稼ぐためにアルバイト(ステーキハウス 三田屋)をしながらバンド活動に打ち込みました。

当時の生活はとても貧しく、アルバイト代(月に約10万円)から、家賃や光熱費、バンド活動費を差し引くと食費があまり残らず、1日の食事がウーロン茶のパック1本だった事や、チキンラーメンを買ってもお湯を沸かす事ができず(ガス代が支払えず止まっていたため)そのまま食べていた事もありました。

画像:バンドマン時代

ライブの舞台に立つ時に、髪をセットする為のジェルを買う費用さえ削るために、公園の石けんを使って髪を固めていた事もありました。

貧しい生活に耐えながら2年ほどメジャーデビューを夢見て、地元のライブハウスで地道に活動を続けていましたが、19歳の時についにそれを諦めます。

やはり音楽業界で成功する人たちと、自分の音楽センスを比べると、自分にはセンスは無いと自覚したことに加え、貧しい生活に耐えられなかったことが大きな要因です。

 

19歳で住宅・不動産業界へ 営業マンとしての下積み時代
地道な努力で培ったハングリー精神が、新たな道を拓く

19歳で音楽活動を断念した当時、とりあえず仕事をしないと…とは思っているものの、やりたい仕事が何なのかすら分からない状態でした。

それまでの数年間、バンド活動で極貧生活を送っていた当時の私は、安易で短絡的な発想でこう思いました。

「不動産業界の営業マンなら稼げる」と!

そういった経緯のもと、世間知らずの10代の青年が絞り出した短絡的な発想で、この業界に飛び込むことになりました。

とりあえず就職情報誌を見て、地元の不動産会社に応募し、入社する事になったのですが、ここからが努力の下積み時代の始まりでした。

数週間前までジーパンに革ジャケット(貰い物)を着て、金髪で単車に載っていた私が、黒髪に染めて慣れないスーツを着て、営業車で営業活動を行うのですから、、、

はっきり言って社会常識を持ち合わせていない私を、面接で採っていただいて、3年間育てていただいた当時の社長には感謝しかありません。

彼の一言一言は今でも頭に残っていますし、私の思考・行動の指針になっている事は間違いありません。

今でも何か判断に迷った時には、彼の一言一言を思い出し、判断基準にしているほど、私の人生に大きな影響を与えてくれた恩人です。
今の私が、弊社の社員に同じことをしてあげられるか、、、と考えると、やはり到底及びそうにありません。

画像:恩人である最初に勤めた会社の社長と福井

結局、この会社には3年間勤めましたが、正に営業マンの下積みと言える毎日でした。

毎日8時半に出社して、お店を開けるところから始まり、毎日21時の閉店作業まで勤務して、休日は毎週水曜日の月4日でした。

お店で待っていてもお客様は来ませんので、平日は空き地・空き家の所有者調査や、見込み客への飛び込み訪問・チラシまきを行い、週末はオープンハウスなどの現場待機でした。

オープンハウス前の木曜・金曜は何千枚というチラシを自分で配り(そのために新聞屋さん御用達のスーパーカブを買いました)、金曜日の夜には、街中の電柱に矢印の誘導看板(今は違法で出来ませんが、、、)を取り付けて、土日は朝から晩まで物件の中でお客様をひたすら待つという生活でした。

この生活の中で学んだ事が、大きく3点あります。

1つ目は、「単純な事を一つ一つ積み重ねていく事の大切さ」です。
一つ一つの小さな事が出来なければ、大きな事が出来るわけがないと実感をもって改めて認識しました。

空き地・空き家の調査、飛び込み訪問、チラシまき、看板の取り付け、物件での待機、、、等々、一つ一つはとても地味な作業です。
しかし、これらを継続して積み重ねていくことが、結果を出す唯一の近道であると学びました。

2つ目は「反骨心」です。

当時、二十歳前後だった同級生たちは、大学生活を謳歌していました。
その彼らの生活がとても羨ましく見えました。

チラシまきや看板の取り付けは、夏の暑い日や冬の寒い日だろうが、雨が降ろうが雪が降ろうが、やらないといけません。
カッパを着てずぶ濡れになりながらチラシをまいたり、看板を取り付けている時に、飲み会帰りの大学生を見ては、「いつか必ず俺の方が出世して見返してやる」と思ったものです。

この時の気持ちが、今の私を形成する一つのファクターになっているのは間違いありません。

3つ目は「読書から得た様々な知見」です。

週末のオープンハウスは、土曜の朝から日曜の夜まで、基本的にはずっと物件内で一人です。
その時間を利用して、この時期に読書をしました。

新撰組関連の小説を片っ端から読み(特に司馬遼太郎の「燃えよ剣」が一番好きでした)、さらに、この頃興味を持った仏教関連の書籍を読み漁りました。

今でもお寺巡りが好きなのは、従来の歴史好きに加えて、仏教を一から勉強した事が大きな要因です。

読書によって、まず日本語能力が格段に向上しましたし、仏教をはじめ様々な知見を得たことは、とても大きかったと感じています。

また、この3年間は、業務面でも多くを経験できました。

売買の仲介を基本としながら、新築分譲用地の仕入れ・販売、注文住宅の営業や、賃貸管理まで、幅広い業務に従事できたことはとても良い経験になりました。

 

22歳で大手へ転職 単身愛知県へ
結果を追い続ける猛烈社員の傍らにあったのは「三方よし」という行動指針

3年間の下積みを経て、22歳の時に当時愛知県に本社があった大手住宅会社へ転職が決まり、単身愛知県へ赴任しました。

業務内容としては、自社の分譲住宅の販売だったのですが、この時期もなかなか苦労の時代でした。

まず土地勘がありません。営業なのに土地勘が無い事は致命的ですし、当時はまだGoogleマップなんて便利なものは普及していませんでしたので、ひたすら紙の地図を広げて地名や道を覚える日々でした。

もう一つ致命的?だったのは私の関西弁でした。今は少しマシになったかもしれませんが、当時の中部地方はあまり関西弁を受け入れる雰囲気ではありませんでした。

印象的なエピソードが2つあり、1つは初出社した際に関西弁をしゃべった瞬間、当時の同僚から、「うわ、関西弁だ」とさげずんだ目で見られたことです。

2つ目は、赴任から一週間後に当時の上司から呼び出されて、「福井、この中部圏で営業マンとしてやっていきたいなら、まずはその関西弁を直せ」と言われたことです。

多少の時間はかかりましたが、この時期、私の関西弁は完全に無くなり、中部圏のイントネーションになりました。

中部圏にいた最後の時期には、私が関西出身である事を知っている人は、一部の人に限られるくらい、私の名古屋弁(やや岐阜弁なまり)は上達していましたし、今でも名古屋の人と話すときには、関西弁は封印します。

このとき勤めていた会社は、当時急成長中の会社とあって、当時はとにかくよく働きました。

当時の上司に言われたのは、「その日の内に帰るのは早い」という言葉で、実際、ほとんどその日のうちに帰れることはありませんでした。

この時期にも様々なことを学びましたが、やはり一番大きかったのは、営業マンとして結果にこだわること・数字に執着すること、そしてお客様・会社・取引先がどのような関係にあり、どのような関係にあるのが理想なのかを意識したことです。

良い物を作り、それをお客様に買ってもらい(ここは営業マンとしての責務です)、お客様に満足してもらった上で利益を出し、それを従業員や取引先にも還元し、良い関係を築くという、「三方よし」の基本を学んだ時期でもありました。

とにかく猛烈に働いた日々でしたが、ここで再び転機が訪れます。

関西へ帰還、そしてリーマンショック‥
時代の追い風と逆風の双方を経験した後、選んだ「独立」の道

本社のある愛知県で勤務していた私ですが、突如、関西支店を立ち上げることが決まり、関西支店立ち上げのメンバーとして大阪出身の私が抜擢され、関西に赴任(私からすれば帰還)することになりました。

関西支店では、主に分譲用地の取得から、事業計画、販売活動まで、まさに分譲事業の入り口から出口まで携わりました。この業務は現在の弊社の中心的業務ですので、この時期の経験が、現在の礎となっているのは間違いありません。

当時はこの業界に慣れてきて、それなりの営業成績を出して、それなりの収入も得ていましたので得意絶頂の時期でした。
一言でいうと調子に乗っている状況で、今の私が過去の自分に会えるとしたら、一番会いたくない人です。

当時の関西支店は、大阪ビジネスパークにありましたが、繁華街の京橋に隣接しており、毎日飲み歩く日々を過ごしていました。
二十歳前後に強く思っていた「出世して見返してやる」を、完全に達成できたと勘違いしている時期でした。

しかし、関西支店を立ち上げて軌道に乗った2008年頃、リーマンショックに直面します。

リーマンショックは、住宅・不動産業界に極めて大きな影響を与え、結果として当時勤めていた会社は、2009年民事再生の申請に至ります。再建を進める中で、全国の支店を閉鎖し、愛知県の本社を残す方針が定まります。

ここで私の選択肢は3つありました。

その会社に勤め続けて愛知県の本社へ戻るか、地元大阪で別の不動産会社に就職するか(実際、大手不動産会社数社から内定を貰っている状況でした)、もしくはこれをタイミングとして独立するか、、、

将来的に独立したいという気持ちはあったものの、当時25歳、業界経験6年の私が独立して果たしてやっていけるのか、もう少し業界経験を積んでから独立するべきじゃないのか、、、葛藤しました。

最終的に独立を選択したのですが、その決断について最後に私の背中を押してくれた言葉があります。

「やってみなはれ!」

パナソニック創業者の松下幸之助氏や、サントリー創業者の鳥井氏がよく使っていた言葉だそうです。あれこれ考えているヒマがあれば、とりあえずやってみろという事です。

これは仏教にもある教えにも通じて、仏教では「毒矢の例え」として知られています。


毒矢に刺さった人が、矢が刺さっているにも関わらず、「この矢はどこから飛んできたのか、どこの誰が、何の目的で矢を放ったのか、毒は何の毒なのか、毒の成分は何なのか」とあれこれ考えている間に、毒で死んでしまうというエピソードです。
そのココロは、「そんなこと考えてないで、早く矢を抜けよ」ですが、やってみなはれに通じる概念です。

ちなみにこの概念は、現在の弊社にも色濃く根付いています。
弊社のスローガンである、「GO FOR CHALLENGE」は、元々はやってみなはれや、毒矢の例えを現代風に変えたものです。

そんな松下幸之助氏の言葉に支えられながら、当時25歳の私は独立を決意し、「神戸都市開発株式会社」を設立しました。
2009年に独立、リーマンショック直後であらゆる業界が混乱している時期のスタートでした。

独立したのは良いものの、やはり25歳の若造である私は大きな勘違いをしていました。サラリーマン時代は、勤めていた会社(一応上場している大手企業)の金看板で、銀行やお客様、取引先の方が信用してくださっていた訳で、私個人を信用してくださっていた訳ではない事を、、、

確かに普通に考えると、業界経験6年の25歳の若造が独立したからといって、誰も何も信用するはずがありません。
何とかオフィスを借りる事はできたものの、運転資金の調達や、事務機のリースで早速つまずきます。

当然銀行は融資などしてくれる訳がありません。
たくさんの銀行の窓口に訪問しても、やんわりと断られるのがオチで、ひどい銀行は「また連絡しますので」と言って何の連絡もないなど、、、

さらにリース会社にも断られ、机などの事務機器も用意できない状態でした。

従って、神戸都市開発株式会社の船出はパイプイスと小学校のような机、家庭用の電話機と、家庭用プリンターでの船出で、はっきり言って悲惨な出発でした。

サラリーマン時代に貯めていた貯金を切り崩しながら、何とか運転資金を捻出していたのですが、それもついに底をつきます。

これが人生二度目の挫折(一度目はバンドマン時代)だと思います。

手元に1万円の現金しかない時もあり、電気代の請求書(約1万円)と電話代の請求書(約5千円くらいだったかな)が両方払えない時もありました。

電気が止まっても、電話があれば何とか仕事は出来るかな、と思って、電話代を払おうとしたのですが、よく考えると電気がないと電話も止まるので、慌てて電気代を先に払った事もありました。

オフィスの賃料や駐車場代も払えず、何度地主さんに謝りに行ったことか、、、

本当に惨めで、苦しい時代でしたが、この時期を過ごす事によって、私の今の金銭感覚(よく言えば節約、悪く言えばケチ)が出来上がったのかもしれません。

サラリーマン時代、会社の看板を自分の看板と勘違いして、調子に乗っていた私でしたので、一気に突き落とされた感じです。
当時の私は本当に苦しく本当に「ここで人生を終わらせる事ができれば、どれだけ楽か」と考えたこともありました。

このどん底の時代に、思い出したことがあります。
19歳で就職した時の、「一つ一つの事を確実にやっていく」ことです。

それが目的達成に近づく唯一の近道である事を、再度思い出しました。
毎日毎日、地道に一つ一つの事をやり、少しづつ、少しづつ、状況は改善していきました。

2年、3年、4年と積み重ねていく事により、銀行やお客様、取引先の方達も少しづつ見方が変わってきます。

今現在、弊社を支えてくれている社員、銀行、職人さん、取引先の方々には、日々感謝しかありません。
中でも、この設立当初の苦しい時期を支えてくれた皆さんへの感謝は、言い尽くせないほどです。

独立後は、もちろん苦しい時代もありましたが、社員一丸となって乗り越えながら、創業以来一度も赤字を出すことなく、今日に至ります。

今振り返ってみると、これまでの振れ幅のある経験や、恩人たちとの出会いが、今の自分の基盤になっていると改めて感じます。
感謝を忘れず、「三方良し」を実現させるという指針を見失わないようにしていきます。

そして、私自身が多くの転機においてチャンスを得たように、お客様にとっても「神戸都市開発」との関わりが、人生の好機となれば、こんなに嬉しいことはありません。

これからも「ここから始めることが、人生を変える」と信じて、前向きなチャレンジを続けていきます。

※「三方良し」…江戸から明治の時代に活躍した近江の商人に息づく理念
自身の利益のみを追求するのではなく、売り手・買い手の双方が満足する商売をし、
人のためになることを継続することで信頼を蓄積し関わる人や社会に貢献する考え方